石見の小藩・津和野は、情報戦略こそ生き残りの術でした。
藩校「養老館」はマンパワーの礎となり、数多くの先哲や学界のパイオニアを輩出しました。
もりおうがい
OUGAI MORI(1862~1922)
明治の文豪森鴎外は、1862年、津和野町字横堀で生まれた。本名森林太郎。家は代々津和野藩の典医だった。1872年父静夫が旧藩主亀井茲監に招かれ一家 は上京、東京帝国大学医学部卒業、陸軍軍医となる。その後4年間ドイツに留学。帰国後、軍医と文人の二つの道を歩み、軍医としては日清・日露戦争に従軍。 明治40年、45歳の時に陸軍軍医総監、第八代陸軍省医務局長に就任した。文人としては、『舞姫』など3部作をもって文壇に登場し、その後小説、戯曲、 詩、翻訳など多方面で活躍した。代表作に『雁』『高瀬舟』『山椒大夫』『阿部一族』『ヰタ・セクスアリス』等の作品がある。
AMANE NISHI(1829~1897)
「哲学」「心理学」「感覚」などの言葉をつくったことでもよく知られている西周は、1829年2月3日、津和野町森村で藩典医西時義の長男として生まれた。時義は森家から養子に入った人で、森鴎外と周は親戚にあたる。
12歳で藩校養老館に入学、20歳のとき藩主に才能を認められ一代に限って家業を継ぐことを免じる「一代還俗」を命じられた。大阪、岡山へ遊学の後、江 戸の藩邸でオランダ文典を勉強した。1854年、西洋の文化、学問を学ぶ重要性を痛感した周は決死の覚悟で脱藩、洋学研究に専念した。
安政4年(1857年)、幕府の「蕃書調所」の教師となり、1862年6月、幕命により榎本武揚らとともにオランダに留学した。オランダでは、ライデン大 学で自然法学、国際法、国法学、経済学、統計学を学び、1865年帰朝、開成所(東京大学前身)の教授となった。
明治維新後、新政府勤務を命じられ、1873年には福沢諭吉らとともに「明六社」を結成、機関誌「明六雑誌」をおもな舞台として、明治初期の文明開化政 策の推進などに大きな啓蒙的役割を果たした。明治12年6月に「東京学士院会長に選ばれ、翌13年には、「軍人勅諭」の草稿を書き上げた。
東京高等師範学校の初代校長にも就任した。周は、明治23年、貴族院議員に任じられたが、体力の哀えが激しく翌年辞任する。明治30年1月、勲一等瑞宝章を授けられ、同月31日永眠。
BUNZIROU KOTOU (1856~1935)
日本地質学の草分けとして東京学士院会員など多くの要職を歴任、研究は国際的に高い評価を得た。大正11年10月に東京大学名誉教授の称号が授けら れ、退官後も研究を続け、昭和10年3月8日、東京の自宅で79年の生涯を開じた。
MIZUHO NAKATA(1893~1975)
明治26年4月24日、津和野町後田上新丁で生まれた。大正6年に東京大学医学部を卒業、29歳のとき新潟医科大学に迎えられた。その後欧米に渡り、最先端の医学知識を得て帰国、当時、未開拓の分野だった脳外科の発展に尽くした。
昭和22年に脳外科研究者の聖典『脳手術』、同24年には『脳腫瘍』を出版、日本の脳外科界に多くの貢献を果たした。昭和31年に新潟医科大学教授を退 官後名誉教授としてまた同大学脳研究室の初代室長として研究を続けるとともに、後身の育成に力を注いだ。昭和33年紫綬褒章を、同42年に文化功労者に選 ばれ、また同年日本学士院会員に選ばれた、ホトトギス派の優れた俳人でもあった中田瑞穂は、昭和50年8月18日、新潟市の自宅で82歳の生涯を閉じた。
RANJYA IZAWA(1889~1928)
上山草人の近代劇教会から新劇協会へ参加し、活躍。
松井須磨子亡き後の新劇を支えた。
1928年「マダムX」でヒロインを演じ、喝采をあびたが同年満38才の若さで死去。
伊沢蘭奢の人生を題材とした『津和野の女』が公演された。
KOREMI KAMEI(1825~1885)
また藩校養老館再建につとめ、鴎外、西周などの逸材を輩出させる源となる。
明治維新後、上京。新政府議定職、神祇事務局補。
坂崎出羽守直盛
さかざきでわのかみなおもり
NAOMORI SAKAZAKI-DEWANOKAMI(?~1616)
悲 運の武将として知られる。関ケ原の戦いの戦功により、慶長6年(1601年)津和野の城主となる。1615年大坂夏の陣の折、燃えさかる大坂城より家康の 孫千姫を無事救い出す。だが家康との約束だった、千姫を嫁にもらうことは秀忠によって破られ、徳川家に恨みを抱いたまま自刃する。津和野の治世は16年と 短かったが、現在の津和野の基となる治水、街並の整備等を積極的に進めた名君といわれる。永明寺に「坂井出羽守」の名前で今も墓が残る。
おおくにたかまさ
平田篤胤の塾に入り、国学を収得。養老館の国学教師となり、「国学を本学と称すべし」として養老館の国学が本学と改められる。江戸末期王政復古を提起、神祇官が再興されたがこれは彼の力によるところ大であった。
YOSHISHIZU FUKUBA(1831~1907)
TOJYUROU HORI(1853~1924)
堀家はもともと大森代官のもと、銅山を支配。そこの15代当主として、後大阪から九州にかけて数十ヶ所の鉱山を経営。大銅山王と呼ばれた。鷲原公園に桜を植えるなど社会的貢献も多く藍緩褒賞など数々受賞している。
NISUKE HOTTA(1747~1829)
KICHIZO NAKAMURA (1877~1941)
TADAYOSHI TAKAOKA(1860~1942)
KUMAO TAKAOKA(1871~1961)
山口中学の途中から札幌農学校予科へ進む。ここで新渡戸稲造に師事し、強い影響を受ける独、米留学で農政学、農業経済学を研究。帰国後農学校教授となり、1933年には第3代北梅道帝国大学校長となる。山口中学で国木田独歩と出合い、晩年まで親交があった。
TAKEO YAMANOBE(1851~1921)
英国で紡績業を学び、帰国後大阪紡績会社を設立、我が国の紡績業の父といわれる。当時の産業革命の中心人物として活躍、1914年三重紡績と合併し、我が国最大の東洋紡績会社を設立し初代社長となる。
KIZIHIKO AMANO(1879~1945)