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日本唯一、原型を留める馬場で繰り広げられる神事と武道の儀。
鎌倉時代の狩装束を身にまとった射手と古式ゆかしい諸役が馬場を行列し、勇壮な流鏑馬が始まります。
射手は「陰陽(いんよう)」と叫びながら疾風のごとく駆け抜ける馬にまたがり、一の的、二の的、三つの的を次々と射止めていきます。
一の的は国の繁栄、二の的は天下泰平、三の的は五穀豊穣を祈うもの。併せて疫病、悪鬼退散を祈願するものです。鷲原八幡宮は約百本の桜の名所でもあり、満開の桜のもとに行われる勇壮な武士絵巻を見ようと多くの方が駆けつけます。
はじまりは平安の世、千年以上の源流を持つ鷲原八幡宮。
鷲原八幡宮は西暦950年に造られました。平安時代の天暦年間に山根六左衛門という郷士が豊前宇佐八幡宮を勧請したのに創まるといい、その後、吉見氏の家祖頼行が鎌倉鶴岡八幡宮から再度勧請し、3代直頼が嘉慶元年(1387年)に現位置に社殿を建立して遷座したといいます。
鷲原八幡宮の流鏑馬の馬場は、全長約270メートル、吉見氏時代に鶴岡八幡宮の馬場を模して作られました。
古い形式の馬場としては現存する唯一のもの。的場(まとば)は築山(つきやま・山をかたどって小高く土をつみ上げた形)になっており、これは他では例を見ない作りです。
一の的、二の的、三の的のそれぞれが築山に配されています。また馬場には馬が疾走するといわれる馬の走路が設けられています。
流鏑馬馬場は昭和41年、島根県指定史跡。鷲原八幡宮は平成23年、国指定重要文化財となっており、1568年に建立の本殿は県内の神社建築で最古のものです。
奉幣(ほうへい)の儀
諸役・射手が社殿前に集まります。社殿内では流鏑馬射手3名に「弓矢渡しの儀」を執り行います。射手たちは社殿前で天下泰平・五穀豊穣を祈願し弊を振ります。
馬場入り
射手が装束を着装し、総奉行ら諸役とともに馬場を巡ります。
下知の伝奏(げちのでんそう)
総奉行の命を受けた日記役が一の射手に下知を伝奏します。日記役が「神事流鏑馬式始めませ」と命じ一の射手は「おお」と答えます。その後、馬場元と馬場末で紅白の扇が掲げられ、流鏑馬が始まります。
流鏑馬
一の射手が左右に扇を運び、「」をしていよいよ騎射が始まります。『陰陽(いんよう)』とさけび、矢を射ます。あらゆる物事を陰と陽の二に分類する思想で厄除のことばでもあります。的は一尺八寸四方の板。見事命中すると大きな拍手がおこります。しかし皆中(かいちゅう・すべての的を当てる)は至難の技。見るものも固唾をのんで見守ります。
射手
鎌倉時代の狩装束の流鏑馬射手は3騎をたて、軽装の平騎射は例年12騎が疾走します。
縁起物 当たり的
流鏑馬の当たり的はその場で記入し、参列者が縁起物として持ち帰るのが人気となっています。
「津和野百景図」に見る鷲原八幡宮と流鏑馬
幕末の津和野藩の景観や習俗を描いた「津和野百景図」は「津和野今昔〜百景図を歩く」というストーリーで日本遺産に認定されてます。鷲原八幡宮や流鏑馬も数多く描かれており、武家はもちろん庶民にも人気だったことがうかがえます。
流鏑馬神事の歩み
◆鷲原八幡宮流鏑馬馬場は鷲原公園の一角で、構築は室町時代(1568年)将軍足利義昭の永禄11年、時の城主、吉見正頼が八幡宮の造営に併せて造ったものと伝えられている。
◆嘉永2年(1849年)亀井家12代茲監(これみ)により、大修理が行われた。
◆室町時代構築の流鏑馬馬場であるが江戸時代までの文献が無い。古い記録(神事流鏑馬聞書〜亀井家所蔵以曽志乃文庫)によれば小笠原流で天下泰平、五穀豊穣を祈願する神事として江戸時代盛んに行われていたが明治以降途絶えた。
◆流鏑馬神事復活/昭和32年(1957年)津和野弓道会同志が歩射流鏑馬を起こし奉納。その後、昭和50年まで地元鷲原青年会有志により復活し鷲原八幡宮春の大祭に奉納される。
◆昭和51年(1976年)小笠原流弓馬術礼法教場30世・小笠原清信範士が鷲原八幡宮参拝時「古代の原型をそのまま残していることで日本一の馬場である」と深く感嘆された。参拝を契機に、この年から小笠原流古式流鏑馬神事の復活となり今日に至る。
毎年4月第1日曜
時 間:午前の部10時半ごろ~ /午後の部13時半ごろ~
場 所:鷲原八幡宮(わしばらはちまんぐう)、鷲原公園